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一般財団法人地域創造
展覧会図録について

作家紹介

  • ジョルジュ・ルオー
  • モーリス・ド・ヴラマンク
  • キース・ヴァン・ドンゲン
  • アンドレ・ドラン
  • マリー・ローランサン
  • モーリス・ユトリロ
  • アメデオ・モディリアーニ
  • ジュル・パスキン
  • エルミーヌ・ダヴィッド
  • 藤田嗣治
  • アレキサンダー・アーキペンコ
  • マルク・シャガール
  • ペール・クローグ
  • オシップ・ザッキン
  • キスリング
  • ジャック・リプシッツ
  • ハイム・スーチン
ジョルジュ・ルオー Georges Rouault, 1871-1958
パリに生まれる。14歳でステンドグラス職人のもとに弟子入りしたが、のちに絵画に専念することを決意。道化師や娼婦、裁判官などをモチーフに選び、巷に生きる人々が抱える苦悩や悲しみをあらわした。次第に関心は宗教的主題へとつながり、イエス・キリストを中心とする聖なる世界の精神性が、太く黒い輪郭線や厚く塗り込められた絵の具、徐々に輝きを増していった鮮やかな色彩を通して表現された。水彩、油彩のほか、印象派画家たちの作品を扱ったことで有名な画商のアンブロワーズ・ヴォラールの勧めで、版画も手がけた。
モーリス・ド・ヴラマンク Maurice de Vlaminck, 1876-1958
パリに生まれる。1900年、アンドレ・ドランとの出会いから本格的に絵画に打ち込みはじめ、1901年、ゴッホの作品に強い感動を覚え、奔放な筆さばきで鮮烈な色彩を特徴とする作品を描き始める。1905年、サロン・ドートンヌに出品した作品がマティス、ドラン、ドンゲンらとともに、批評家から「野獣(フォーヴ)」と酷評された。これが逆に注目を浴び、フォーヴィスムを代表する画家となる。1920年代以降は寒村に移り住み、ひたすら、大地と大空、そして果てしない地平線、空気と向き合い、格闘し、生命を描き続けた。
キース・ヴァン・ドンゲン Kees van Dongen, 1877-1968
オランダのデルフスハーフェン生まれ。パリで生活を始めて数年後、1905年のサロン・ドートンヌへの出品をきっかけにフォーヴィストの一人として注目される。華やかで官能的な女性たちや都会的な風俗が鮮やかな色彩で描き出された。第一次世界大戦後は、上流階級の婦人たちや著名人の肖像画で人気を博し、社交界の寵児に。1926年にはフランスの最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章を受章。1929年にフランス国籍を取得。第二次世界大戦後は拠点をモナコに移し、なおも精力的に活動した。91歳で同地にて亡くなる。
アンドレ・ドラン André Derain, 1880-1954
パリ近郊の行楽地、シャトゥーで生まれる。1905年のサロン・ドートンヌに、親しくしていたマティスやヴラマンクとともに出品。フォーヴィスムの体現者として活動するが、セザンヌやアフリカ彫刻への関心から、キュビスム的手法も取り入れた。第一次世界大戦後は次第に前衛から離れて古典に回帰し、厳格な構成や確かなヴォリューム感、明暗表現を追求した写実的な裸婦画や静物画を抑制された色彩で描く。油彩画だけでなく、彫刻や本の挿絵、陶器の絵付けなど多方面で制作活動をおこない、1919年にはバレエ・リュス主宰者ディアギレフの依頼で舞台装置と衣裳のデザインも手がけた。
マリー・ローランサン  Marie Laurencin, 1883-1956
パリでお針子として働く母のもとに婚外子として生まれる。経済的な援助によって比較的恵まれた環境に育ち、名門女学校に通う。1907年ごろから、新進芸術家たちが集うモンマルトルの共同アトリエ「バトー・ラヴォワール」に出入りするようになり、ピカソの紹介で恋人となった詩人ギヨーム・アポリネールをはじめさまざまな前衛芸術家と交流。第一次世界大戦後に確立された、パステルカラーの色面による優美で柔らかい表現は、社交界の女性たちから絶大な人気を博した。バレエ・リュスなどの舞台美術や挿絵本も手がけ、幅広く活躍した。
モーリス・ユトリロ Maurice Utrillo, 1883-1955
女流画家シュザンヌ・ヴァラドンの私生児としてパリに生まれる。早くから飲酒癖が始まり、アルコール中毒で入退院を繰り返す。治療目的のため絵を描きはじめ、母や風景画家アルフォンス・キゼから指導を受ける。絵葉書や写真をもとに室内で制作。遠近法を駆使し、初期は暗い色調の風景画を描くが、のちに印象派風となり、やがて「白の時代」(1909-1914年頃)と呼ばれる絶頂期に入り、郷愁と哀愁に満ちたモンマルトルの街角風景を数多く描く。1920年代に入ると「色彩の時代」をむかえ、パリで最も注目される作家の一人となった。
アメデオ・モディリアーニ  Amedeo Modigliani, 1884-1920
北イタリアに生まれる。1906年、パリに移住し、1909年、彫刻家ブランクーシとの出会いから彫刻に打ち込む。ザッキン、キスリング、藤田嗣治、スーチンとの親交を結ぶ。1914年、体調の悪化等により、絵画(特に肖像画)に専念しはじめる。1917年、生涯唯一となる個展をベルト・ヴェイユ画廊で開く。この頃から、独自の表現様式を生み出し、1919年、ロンドンで開催された「現代フランス美術」展で注目を浴びた。しかし、激しい制作活動と酒場から酒場への放浪を繰り返す生活により病を悪化させ、死去した。
ジュル・パスキン Jules Pascin, 1885-1930
ブルガリアのヴィディンで裕福なユダヤ人の家庭に生まれる。ウィーンやミュンヘンなどの美術学校で素描を学び、当時ミュンヘンで人気のあった風刺雑誌『ジンプリツィシムス』誌の挿絵画家となる。1905年には同誌の仕事を続けながらパリに移り、油絵の制作を始める。第一次世界大戦が勃発すると渡米。滞在中はアメリカ南部やキューバなどを旅し、現地の人々の生活や各地の風景を鮮やかな色彩で描く。1920年にはパリに戻り、震えるような描線と「真珠母色」と呼ばれる輝く虹色を帯びた甘美な色彩により人気を博し、エコール・ド・パリの花形作家となった。
エルミーヌ・ダヴィッド Hermine David, 1886-1970
パリ生まれ。エコール・デ・ボザールに次いでアカデミー・ジュリアンに通い、版画や象牙による細密画などを学び、1905年に画壇にデビュー。1907年にパスキンと出会い、渡米後の1918年に結婚。1920年アメリカ国籍を取得。その後モンマルトルに居を構えた。1930年にパスキンが悲劇的な最期を遂げた後も数多くの展覧会へ出品、個展も開催した。版画付の挿絵本文化が花開いた19世紀末から20世紀にかけてのパリで、挿絵画家として飛躍。油彩画では、緑を主調としてパリやその近郊の風景などを描いた。当時数少ない女性芸術家の一人。
藤田嗣治 Léonard (Tsuguharu) Foujita, 1886-1968
東京生まれ。東京美術学校卒業後、1913年、渡仏。パリ・モンパルナスを拠点にモディリアーニ、スーチンらと交友した。1919年、サロン・ドートンヌに出品した全てが入選し、会員に推挙され、1920年代にはキキ、ユキなどをモデルに「偉大なる乳白色の下地」と讃えられた裸婦画を発表し、エコール・ド・パリの寵児となった。1930年代には、中南米をはじめ各地を旅行。1940年、帰国し、戦争記録画の制作に従事。1949年、フランスに戻った後、帰化。1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナールと改名した。
アレキサンダー・アーキペンコ Alexander Archipenko, 1887-1964
キエフ(現ウクライナ)生まれ。1908年パリに移住。ルーヴル美術館に通い、エジプト、アッシリアなどの作品に多くを学ぶ。モンパルナスのラ・リュッシュ(蜂の巣)に住み、リプシッツ、モディリアーニ、シャガールらと制作活動をともにし、ザッキンらとともにキュビスム発展に大きな役割を担った。その後も様々な素材を組み合わせた作品や、彫刻絵画と命名した作品、抽象的な凹面で形作られた作品など、新しい試みを展開している。1923年に渡米、1928年に市民権を取得。以降、没するまでアメリカが制作と教育活動の場となった。
マルク・シャガール Marc Chagall, 1887-1985
ヴィテブスク(現ベラルーシ共和国)に生まれ、1911年にパリに出て、モディリアーニ、スーチン、ピカソらと親交を結ぶ。1915年、故郷で運命の恋人ベラと結婚。1923年、パリに戻り、画商アンブロワーズ・ヴォラールとの出会いから、ゴーゴリの『死せる魂』挿絵を制作。1941年、渡米。1944年、妻ベラを失い、一時制作を中断。1952年、ヴァヴァと結婚。依頼を受けた『ダフニスとクロエ』の取材にヴァヴァとともにギリシャを訪れた。ベラ、ヴァヴァとの愛をはじめ、幻想的な愛と夢に溢れた作品を描き続けた。
ペール・クローグ Per Krohg, 1889-1965
ノルウェー生まれ。両親とも画家。1891年一家でパリに移住。1902年から父親がモンパルナスで主宰していた画塾で学ぶ。1909年頃からフォーヴィスムやキュビスムなどに洗礼を受け、次第にアカデミズムの作風を脱す。その後も作風を変転させたが、1920年代に入るとその画風は写実的なものに落ち着き、自己のスタイルを確立した。この頃妻リュシーがパスキンの愛人となるが、パスキンの自死後、離婚。自身の愛人テレーズとも別れ、1932年にオスロに帰住後、オスロ美術大学の教授、学長を歴任しノルウェーの美術界に貢献した。
オシップ・ザッキン Ossip Zadkine, 1890-1967
ヴィテブスク(現ベラルーシ共和国)生まれ。渡英後の1909年にパリに移住。1910年ラ・リュッシュ(蜂の巣)にアトリエを借り、この頃からブランクーシ、アーキペンコ、リプシッツ、モディリアーニらと交遊。1915年仏軍第一外人連隊に従軍。1920年藤田嗣治を立会人として結婚し、1921年フランスに帰化した。同年、日本の二科展に招待出品。第二次世界大戦中はアメリカに亡命し、後にパリに戻り教鞭をとった。古代やアフリカの彫刻から得たプリミティブな要素を作品に採り入れ、凹凸の逆転や空洞が交錯する独自の作風を築き上げた。 
キスリング Kisling, 1891-1953
現ポーランドのクラクフで、ユダヤ系の裕福な家庭に生まれる。1910年からフランスに移り、モンマルトルやモンパルナスで多くの画家、詩人らと親交を結ぶ。社交的で人望が厚く、早くから成功して経済的にも豊かだったため、文化人たちのリーダー格として「モンパルナスの帝王」と呼ばれた。特定の様式や流派に同化することはなく、肖像や静物、風景といった伝統的ともいえる画題を一貫して描き続けるなかで、1920年ごろには、なめらかな絵肌と濃厚な色彩、確かな量感をもったキスリング独特の表現が確立された。
ジャック・リプシッツ Jacques Lipchitz, 1891-1973
ドルスキエニキ(現リトアニア共和国)生まれ。1909年パリに移り彫刻と素描を学ぶ。ブランクーシのアトリエの隣に住み、ピカソやモディリアーニ、スーチンらと交遊。キュビスムの影響を受けた彫刻を制作する。1925年頃から曲線と空洞が軽快さを生む作品に変化し、これを「透明な彫刻」と名付けた。1930年頃からギリシャ神話や聖書を題材とした作品も多く手がけ、1937年パリ万国博覧会に《プロメテウス》を展示、金賞を受ける。1924年フランス国籍を取得したが、1941年にアメリカに亡命。以後アメリカを中心に活動した。
ハイム・スーチン Chaïm Soutine, 1893-1943
ミンスク近郊の小村スミロヴィチ(現ベラルーシ共和国)で、貧しいユダヤ人の家庭に生まれる。1912年ごろにフランスに移り、うねるような激しい筆致、歪められた形態、赤や緑を多用した強烈な色彩といった独特の画風が形成された。1923年、アメリカの収集家がスーチンの作品を気に入り大量に購入したことで、長い貧困生活から抜け出すことができた。パリを本拠地として、吊るされた鶏や肉塊を主とした静物画、ホテルやレストランで働く使用人や街の子どもをモデルにした肖像画を多数制作。目の前にあるものを描くことにこだわり、形態や色彩への関心を強めた。
  

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